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ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵) : ウィキペディア日本語版
ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)

初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョン(、1678年9月16日 - 1751年12月12日)は、イギリスの貴族、政治家、作家。
アン女王時代のトーリー党政権で(在職:1710年 - 1713年)や(在職:1713年 - 1714年)などの閣僚職を歴任したが、1714年ジョージ1世即位後にはホイッグ党に敗れ、一時フランスに亡命してジャコバイトと合流した。1723年に恩赦を受けて帰国し、パンフレットを通してホイッグ党政権を攻撃し続けた。1738年には政党政治を批判して「愛国王」による親政の必要性を説く『愛国王の理念』を著した。爵位名はボリングブロク、姓名はセントジョンとも呼ばれる。
== 生涯 ==

=== 政界入りまで ===
1678年10月10日イングランド王国サリーの(現在のワンズワース・ロンドン特別区)でシンジョン準男爵家の嫡男である(後に初代シンジョン子爵)と第2代ウォリック伯の娘メアリーの息子として生まれた。
初期の経歴は不明でイートン・カレッジオックスフォード大学クライスト・チャーチで学んだとされるが、どちらの名簿にも名前が載っていないことから非国教徒専門学校(Dissenting Academy)に在籍していたとも言われている。
1698年から1699年にかけてヨーロッパのグランドツアーに出かけ、フランススイスイタリアを訪れフランス語を習得した。1700年にサー・ヘンリー・ウィンチコムの娘フランシス・ウィンチコムと結婚。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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